メディカルライフ未来の事務所前に立つ長岡未来さん=札幌市白石区で2025年9月8日、高山純二撮影 人生の転機を迎えたのは30歳。看護師として大学病院に勤務しているときだった。 札幌市でグループホームを経営する長岡未来(みく)さん(43)。「医療の世界だけではなく、新しい社会も知りたかった」。当時は集中治療室(ICU)で働いており、髪の毛を染めたことも、ネイルをしたこともなかった。 おしゃれに無縁だった女性が看護師を辞めて門をたたいたのは、札幌市内のモデル事務所だった。 小学校高学年だったとき、3歳下の妹が長期入院し、何度も見舞いに通った。 「妹の身の回りのことや心のケアを一生懸命してくれているのが看護師さんだった。そばにいてくれるだけで安心できた」Advertisement 初めて看護師という職業を意識した瞬間だった。 高校進学後、自然に看護師を志した。2年生から看護コースに入り、卒業後は砂川市立病院付属看護専門学校に進んだ。 看護学校卒業後、砂川市立病院に就職し、脳外科に配属された。 初めて新人同士で夜勤を任されると、患者の容体が急変した。 どんどん白くなっていく患者の顔を見ながら、頭が真っ白となり、何をすれば良いのか全く思い浮かばない。 学校で学んだ救急対応ができない、ふがいない自分が立っていた。 「もっと勉強して訓練しないと、人を助けることができない。命の重さを実感した体験だった」 勤務の合間を縫って当時最先端だった心肺蘇生法「ACLS」を学び、インストラクターの資格も取得した。 脳外科で2年、内科で2年勤め、別の総合病院に移ると、日勤帯は産婦人科、夜勤帯は救急外来の勤務を3年間続けた。 自分自身のレベルアップを目指し、関心があった移植術が充実していた長崎大学病院に転職する。 「看護師の最終形は、ICUに勤務するイメージを持っており、希望して配属してもらった」 激務の職場だったが、希望した職場で働き、充実した日々を送っていた。 しかし、30歳を迎えたとき、看護師を辞める決断をする。 「医療は一般社会と隔絶している部分がある。新しい世界を知りたい、いろんなことにチャレンジしたいと思った」 看護師として走り続けて10年、多くの病気の人を見続けてきた。 今度は健康な人を見ていきたいという気持ちもあった。病気になる前、健康のためには何が必要なのか。 そう考えたとき、思いついたのは「食」だった。 札幌に戻り、食育に関する資格を取得し、健康な人に学んだことを伝えたいと考えた。 だが、当時のフェイスブックの友達は100人程度。看護師を辞めたばかりの自分自身には発信力が全くなかった。 「モデルになれば、テレビに出られる可能性もあり、発信力もつけられる。当時の私にはそれしか思いつかなかった」 家族にも「何でモデル?」と驚かれる決断だったが、自分の思う道を突き進む。 札幌のモデル事務所に行き、社長に「発信力をつけたい」と訴えて入所が認められた。 週3回、ウオーキングや演技のレッスンに通い、各種オーディションにも挑戦。 モデルは10代から訓練している人が多く、30代からスタートする人は非常に珍しい。 遅咲きのモデルとして雑誌の取材を受けたこともあったが、1年間はほとんど仕事らしい仕事に恵まれなかった。【高山純二】 1982年生まれ、旭川市出身。旭川東栄高(現旭川永嶺高)、砂川市立病院付属看護専門学校卒。看護師、モデルなどを経て、2022年に株式会社「未来」を設立し、グループホームを運営している。