24色のペン毎日新聞 2025/9/18 06:00(最終更新 9/18 06:00) 有料記事 2104文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷市民向けに綜合原爆展について語る小畑哲雄さん=京都市伏見区で2025年6月7日、鵜塚健撮影 戦後80年を迎えた今夏、全国各地の資料館や公民館では、例年以上に多くの原爆展が開かれた。被爆者の平均年齢は86・13歳。原爆展を通じ、被爆者の証言や記録を次世代に引き継ぐことはこれから一層重要になる。ただ、終戦後の占領下では、原爆についての報道や展示は厳しく規制されていた。日本で最初の原爆展はいつどこで開かれたのだろうか。 被爆地でもなく、東京や大阪でもない。市民向けの本格的な原爆展が初めて開かれたのは京都だった。それも国や研究者によるものではない。京都大の学生がボランティアで企画、開催したものだった。 「綜合(そうごう)原爆展」は1951年7月14日から24日まで、現在のJR京都駅前にあった丸物(まるぶつ)百貨店で開かれた。夏休み中の子どもたちを含め約3万人の市民がつめかけ、入場券を急きょ増刷するほどだった。「とにかく原爆がどんなものなのか知りたい。そんな市民が多かったのでしょう」。開催にかかわった小畑哲雄さん(98)=京都府八幡市=が振り返る。まだ占領下で、原爆に関する情報がほとんど公開されていない時代だった。 大きな特徴は、原爆について網羅的に紹介した点だ。各学部の学生が得意分野を生かし、それぞれ展示パネルを作製。医学部は放射線の人体への影響について、工学部が原爆による建築物の影響についてまとめ、文学部は被爆者の手記を紹介した。学生が広島に出向き、被爆者から直接話を聞き、撮影した写真もあった。 京都大は原爆投下直後から研究調査班を広島に送っており、被爆者に関する医学的な情報も蓄積されていた。一部の学者は米軍からの資料提供要請を巧みにかわす一方で、危険を承知で原爆展への資料提供に協力した。 原爆投下から6年。新たな核の脅威が迫った時期だった。…この記事は有料記事です。残り1368文字(全文2104文字)【前の記事】打倒アニサキス 生食文化を守るために=太田敦子関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>