「共産党員は殺してもいい」 父が克明に記録した特高警察の言葉

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毎日新聞 2025/9/22 06:00(最終更新 9/22 06:00) 有料記事 3999文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷京都大に入学した頃の真殿久治さん=真殿天童さん提供 <私は、拷問と斗(たたか)って、組織を守った。留置場の看守は、名なしの共産主ギ者を、「おい」という言葉でしか、よべなかった> 父が残したノートには、特別高等警察(特高)から浴びせられた暴言や暴力の数々と、それにあらがう様子が詳細に記されていた。息子が「覚書」に目を通したのは、父の死後。父の存在が息子の背中を押し、治安維持法の検挙者たちを顕彰する活動へと駆り立てた。市井の人々の暮らしにも容赦なく降りかかった弾圧の一端から、無名の人たちの闘いに思いをはせたい。「私は、二月二十二日を忘れない」 「人間を扱ってるんと違いますからね、あんなのは」。父が受けた特高からの拷問を説明しながら、そう話すのは、大阪市阿倍野区の真殿(まどの)天童さん(78)。国に謝罪などを求める人権団体「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(国賠同盟)」の大阪府本部副会長などを歴任したが、ここ数年は全身の筋肉に力が入りにくくなる病気を患うなど体調不良が続き、活動にも顔を出せなくなった。 健康不安が高まり、父・久治(ひさじ)さん(1908~90年)と自分を重ねるように。「おやじが死んだんが82歳やから、もうちょっとや。それまで生きられたらいいけど……」。久治さんは生涯で4度、治安維持法違反容疑で逮捕された。時にいわれのない疑いをかけられ、時に激しい拷問で命の危機にさらされた。思い出すのは、後遺症に苦しみ床に伏せる父の姿ばかりだ。 「おやじは投獄されて劣悪な環境に置かれた影響で肺や腸を患い、それが引き金となって戦後も脊椎(せきつい)カリエスなどいろんな病気にかかった。寝たきりに近い状態でした」。長く手つかずだった遺品を10年ほど前に整理し、大量の段ボールに収められた130冊のノートに初めて目を通した。タイトルは「病閑記」。久治さんの生き様をよく表していた。 ノートは63年12月~77年12月の14年間に記された。戦前の体験談などが回想的につづられ、久治さんが取り組んだ非合法下の労働組合活動や特高による弾圧の様子、国家権力への怒り、息子への思いなどが書かれていた。 <私は、二月二十二日を忘れない> 中でも真殿さんが息をのんだのが、激しい暴行を受けた33年2月22日の2度目の逮捕の記載。特高による集団的拷問を経験し、生涯悩まされる後遺症を負った。「病閑記」と、生前に久治さんが真殿さんに語った証言から、忘れ得ぬ「その日」を再現したい。激しい拷問に無言を貫いた父 東京・上野駅前――。雪解けの寒い朝だった。治安維持法の弾圧が続く中、久治さんは…この記事は有料記事です。残り2936文字(全文3999文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>