24色のペン:忘れられぬ饅頭の味 生きて帰れたのは中国の人たちのおかげ=鵜塚健

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24色のペン毎日新聞 2025/12/16 06:00(最終更新 12/16 06:00) 有料記事 2323文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷旧満州への渡航前に撮影した家族写真を手に、思い出を語る内藤玲子さん=京都府城陽市で2025年12月5日、鵜塚健撮影 80年前の旧満州(現中国東北部)は、秋口でも冷たい風が吹いていた。ソ連兵から逃れ、移動する日々。ずっと空腹だった。当時9歳の内藤玲子(りょうこ)さん(89)=京都府城陽市=は、家族のために中国人の農家を訪ねて回った。母が持っていたわずかなお金も尽きていた。「頭を下げて饅頭(まんとう)をもらい、家族で分けました。それが本当においしくておいしくて」 内藤さん一家は1944年1月に京都から、ソ連国境に近い中国・黒竜江省の佳木斯(ジャムス)に移り住んだ。父は満蒙開拓団を統括する組織の一員。広い家を用意され、食料にも困らない暮らしだった。1年半後、家族の生活は暗転する。45年8月7日に40歳を過ぎた父に召集令状が出された。父が家を出た翌8日には、ソ連が対日宣戦を布告した。「ソ連兵が攻めてくる。すぐに駅に集合して」。9日朝、町内会の緊急の呼びかけで、ほぼ着の身着のままで開拓団の人たちが集まった。「軍隊は守ってくれなかった」 佳木斯は「武装開拓団」が早い段階で入植したことで知られ、軍人が多い町だった。内藤さんが通っていた国民学校では出征した教師に代わり、軍人がやってきて、子どもの態度が気に入らないと容赦なく平手打ちした。しかし、ソ連兵の侵攻を逃れ、開拓団が佳木斯から出発する日には軍人たちは消えていた。「軍隊は守ってくれなかった。私たちは国から捨てられたんです」。内藤さんはそう振り返る。…この記事は有料記事です。残り1727文字(全文2323文字)【前の記事】「より速く」は必要?南アルプスを知る沢ヤの問い=平塚雄太関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>