暗い壕に眠る遺骨、今も残る「戦場」の痕跡 写真で伝えた沖縄戦

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喜屋武真之介毎日新聞 2025/12/26 08:00(最終更新 12/26 08:00) 有料記事 1996文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷沖縄県糸満市摩文仁の海岸近くにある「一中学徒通信隊終焉之地」の標柱。動員された学徒がこの場所に追い詰められ、一部がナパーム弾攻撃などの犠牲になった=4月15日、喜屋武真之介撮影 戦後80年の2025年が暮れようとしています。毎日新聞は今年、写真記者が全国を歩き、各地に残る戦跡を写真で伝える「残像1945」を新聞紙面とニュースサイトで連載しました。沖縄出身の喜屋武真之介記者は、日米両軍による激しい地上戦の場となった故郷の戦跡を、当時の時系列に沿って訪ねました。暮らしを破壊し、命を奪った「戦場」という非日常の痕跡は、時の流れで失われつつあるものの、人々の苦しみの記憶をいまも私たちに訴えかけ続けます。喜屋武真之介(写真映像報道部兼那覇支局)戦場の「非日常」を今につなぐ 3月26日付夕刊に掲載された「残像1945」の初回は、私が担当した。私の故郷であり現在勤務する沖縄では、80年前のこの日、沖縄本島の西約40キロにある慶良間(けらま)諸島に米軍が上陸し、日米両軍の激しい地上戦が始まった。 米軍は1945年4月1日、本島中部にも上陸し、南へ北へと侵攻した。日本軍は5月下旬、首里(現・那覇市)にあった司令部壕(ごう)を放棄して本島南部へと撤退し抗戦を続けた。日本本土への米軍の侵攻を少しでも遅らせるためだった。 この決断によって住民の犠牲は拡大した。沖縄戦の死者は日米合わせて約20万人。そのうち一般住民の死者は推計で9万4000人に上る。日本軍司令官が6月下旬に自決し組織的な戦闘が終結した後も、局地的な戦闘は続いた。そして終戦後、沖縄は27年間、米国統治下に置かれた。逃げ惑う住民が見た景色 「残像」沖縄編は、そんな沖縄戦の経過を時系列に沿ってたどる形で11回掲載した。春から梅雨へ、梅雨から夏へ。本土に先んじて移り変わる季節の中で、80年前の住民たちはどんな景色を見ながら戦場を生きたのか。45年と現在をつなげようと、私はカメラを手に、時に森でうっそうと茂る木々をかき分け、時に海岸の険しい岩場を歩き、80年前に思いをはせた。 米軍が最初に上陸した慶良間諸島の座間味(ざまみ)島では、住民の案内で、日本軍が特攻艇を隠…この記事は有料記事です。残り1171文字(全文1996文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>