映画の推し事:映画評論の巨人・佐藤忠男が見た生涯1万本「最良作」は意外にも……

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映画の推し事毎日新聞 2025/12/28 22:00(最終更新 12/28 22:00) 2673文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「佐藤忠男、映画の旅」の寺崎みずほ監督=大阪市淀川区で2025年12月1日、谷口豪撮影 「映画の力で世界を変えようと、本気で信じていた」 「佐藤忠男、映画の旅」は、映画評論の第一人者、佐藤忠男(1930~2022年)が亡くなるまでの3年間の記録と、その人物像を追ったドキュメンタリーだ。佐藤の教え子、寺崎みずほ監督がメガホンを取った。冒頭の言葉は、恩師を評した寺崎監督のものである。 佐藤は戦後、日本電電公社(現NTTグループ)で修理工などとして働きながら、読書と映画に明け暮れた。20代で映画雑誌の読者投稿欄で注目を浴び、評論家として歩み始める。「キネマと砲声 日中映画前史」など、著書は150冊を超える。Advertisement 96~17年には日本映画学校(後に日本映画大学)の校長・学長を務めた。70年以上、第一線に立ち続け、アジア映画の発掘に尽力した功績から、映画評論家として初の文化功労者に選ばれた。「怖い人」でも「素朴、つかみどころがない」 寺崎監督は日本映画学校で佐藤の授業を受けた。「怖い人」との印象ばかりで、話しかけることなどもってのほかだった。企画が持ち上がった際、寺崎監督は佐藤と改めて対面した。授業の時とは、違う印象を抱いた。 「服装も質素で、話してみると偉ぶらず、何でも教えてくれる素朴な人。でもつかみどころのない部分もあり、興味を抱いた」と語る。そして「佐藤さんの内面に迫れたら、きっと面白いものができるのではないかと思った」と振り返る。 佐藤を語る上で外すことができないのは、アジア映画の発掘に力を注いだことだろう。佐藤は妻の久子と共にアジア諸国を訪ね、各国の良質な映画の発掘に情熱を注いでいた。 ドキュメンタリーでは、夫婦のアジア映画への愛情を映すと同時に、複数の関係者が佐藤たちが残したものについて語っている。 中でも印象深いのは、佐藤が敬愛していた韓国の名匠、イム・グォンテク監督の言葉だ。 イム監督は「自身の作品がどのように見られているか知るすべもなかった時代に、佐藤さんが評論をしたことは、海外で紹介される上で多大な寄与になった」と感謝を述べる。 佐藤の批評が、どれほど大きな励ましになったかが伝わる。その他の関係者たちも皆、「佐藤さんのためなら」と出演を快諾してくれたという。「佐藤忠男、映画の旅」©GROUP GENDAI FILMS CO., LTD.反戦意識と「アジアのため」 佐藤をアジア映画の探求の旅に駆り立てたものはなにか。寺崎監督は「佐藤さんの根底にあったのは圧倒的な反戦意識」と感じている。 45年初め、佐藤は海軍少年兵を志願。予科練として航空隊に入隊した。入隊3カ月後、兵隊の一人として終戦を迎えた。佐藤は常々、「軍国少年だったことへの贖罪(しょくざい)意識」とアジア探求の理由を語っていたという。 しかし寺崎監督は「そこにとどまらない思いがあった」と指摘する。 「黒沢明が発見されるまで日本映画が評価されていなかったように、アジアに素晴らしい映画があるのに、欧米諸国の色眼鏡で低く見られていることが、佐藤さんは悔しかったのだと思う」 佐藤は91年に始まった「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」でディレクターを担当した。あらゆる国の映画が上映できるよう尽力。アジア諸国が対立するのではなく、交流できるようにと賞を設けなかった。 寺崎監督は「佐藤さんは、アジアの映画人のために、自分が発信しないといけないという思いが強かった。映画の力でアジアの人たちとつながろうとしていた」と考える。 カメラの前でインタビューに答える佐藤は決して、雄弁ではない。しかし、アジア映画について語る場面は冗舌で、アジア諸国の映画人と触れ合う時は非常ににこやかだ。 寺崎監督は「小国がまとまって、大国に“映画砲”を放つように」と、“武力”ではなく“映画の力”を信じた佐藤の思いを表現した。「佐藤忠男、映画の旅」©GROUP GENDAI FILMS CO., LTD.土地、歴史、文化……人間の面白さ 本作はさまざまな角度から佐藤の思想に迫る。生涯で1万本以上の作品を見たという佐藤が、「一生で見た最良の映画」として挙げた幻の名作「魔法使いのおじいさん」(79年)に焦点を当てたのも、その一つだ。インド・ケーララ州出身の名匠、ゴービンダン・アラビンダン監督の作品だ。 「魔法使い」と呼ばれる老人が村に現れた。お面を売り、不思議な歌を披露する老人に、子どもたちは夢中になる。老人は村を去る日、子どもたちを魔法で次々と動物に変えていく――との内容だ。 佐藤は、童心の世界へ誘い込むこの映画を「無邪気さの極致」と評した。「至福の境地に誘い込まれる」と絶賛している。 なぜここまで魅了されたのか。 寺崎監督もこの作品を鑑賞した。「佐藤さんがなぜ、この映画をナンバーワンに挙げたのかを言語化できなかったが、佐藤さんが口に出せないくらい、引かれたものがあることも確かに感じた」と語る。 寺崎監督は「答えが見つからなくてもいいから、探しに行こう」と考え、ロケ地を訪ねた。カメラは、当時少年少女だった出演者の現在を映す。中高年となった彼らが「遠い昔の思い出」として作品を振り返る。 ロケ地は都市化が進み、様変わりしている。面影はほとんどない。しかし、ドキュメンタリーの画面からも、その土地に生きている人間のエネルギーは強く感じられる。 寺崎監督は「土着的な歴史や文化、生き生きとした子どもたち。人間の面白さが『魔法使いのおじいさん』全体を包んでいることに気づいた」と説明する。そして、「佐藤さんは、その部分にほれ込んだのだと思います」と語る。「佐藤忠男、映画の旅」©GROUP GENDAI FILMS CO., LTD.絵になった執筆の姿 映画を愛する人は、映画そのものだけではなく、映画評論も厳しく批評する。佐藤は知識と経験を常に蓄え続け、批評の確かな目を養い続けようとしていた。そんな佐藤のアジア映画に対する情熱と行動力は、「批評」の枠を超えているように感じられた。 寺崎監督が密着を始めた当初、佐藤はアジア映画の旅行記を執筆していた。カメラを回した3年間を通して、寺崎監督の目に焼き付いているのは、佐藤が筆を執る場面だった。 寺崎監督は「気がついたら、何かを書いている。佐藤さんが執筆する際の姿勢は、長年きれいに保たれていて、絵になった」と思い返す。 19年、佐藤が文化功労者に選ばれたところで、寺崎監督が「今、書きたいことは何か」と尋ねる場面がある。 佐藤は長い沈黙に沈んだ。沈黙の末の答えは、誠実で示唆に富むものだった。 佐藤は、映画に対する自身の価値基準を文章でさらけ出した。文章によって、読者を劇場にいざない、アジア映画に世間の目が向くきっかけを作ろうとしていた。ドキュメンタリーから、映像と文章に向き合った“職人”のすごみを感じた。【谷口豪】【時系列で見る】【前の記事】セクハラ、パワハラ、いじめ……理不尽な世界で知性を鍛えるには 「プラハの春」がくれた勇気関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>