毎日新聞 2025/12/28 06:00(最終更新 12/28 06:00) 有料記事 3321文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷目を閉じ、小学生の頃の記憶を思い出す内田雅克さん。野球を巡る苦い記憶はその後の歩みに大きな影響を残している=東京都杉並区で2025年12月11日午後4時33分、田原和宏撮影 夕暮れ時、少年たちの歓声が響き渡る。東京都杉並区の公園。少年がバットを振り抜くと、誰もいない外野を白球が転がっていく。少子化で子どもの数は大きく減ったが、60年前と変わらぬ光景だ。 懐かしさを覚える人もいるだろうが、トラウマを拭いきれない人もいる。 高度成長期にこの地で生まれ育った内田雅克さん(68)はつぶやいた。 「ふとした瞬間に記憶がよみがえる。過去に引きずられて今を楽しめない。自分を受け入れられない」 現在は中央大講師で、ジェンダー史が専門の内田さんは2年前、一冊の本を出版した。「壊された少年 排除と屈辱のジェンダー史」(風媒社)。そこには次のような記述があった。 「あれ以来わたしは、野球はしたくないと思い続けてきた」二つの原風景 教職に就き、結婚して2人の子どもを育て、孫もできた。大学教授を退職後は趣味の書道を教え、地元の小学校で教育支援のボランティアにも携わる。 はたから見れば恵まれたセカンドライフ。なぜ今になって、自らの痛みと向き合い、自分史を出版したのだろうか。 「小学校も中学校も、教員になってからもずっと悪口を言われっぱなしだった。だから自己否定の塊。この年齢になって思うのは、なぜあの時、言い返せなかったのかということ」 小学4年だった内田さんはある日の放課後、クラスメートから半ば強引に野球に駆り出された。人数合わせか、それとも野球が苦手な者への嫌がらせか。 「おまえ、責任バッターだからな!」 2死で打席を迎えた内田さんは、そう言われたことを覚えている。結果は三振。「カス」「死ね」「気持ち悪い」。容赦なく罵声が飛んだ。苦痛だった。なぜ自分だけ責任を問われるのか。自宅の裏手にある空き地から、押し黙ったまま家に帰った。 内田さんは体が小さく、色白な子だった。「女の子のような少年だった」。自著には、こう記した。 「この顔、この身体、この性格が『女みたい』だからいけないのだ」 戦後、野球は多くの少年たちにとって特別だった。 「もうすぐ陽(ひ)も暮れようとしているのに、野球小僧たちは一本しかないバットを振り回しては、アウトだ、セーフだ、ヒットだ、エラーだ、三振だ、と、これも一個しかない軟式ボールを追っかけて、大はしゃぎ」(「野球小僧の戦後史」祥伝社) 10年前、戦後70年の節目にビートたけしさんは遠い記憶の日々をそう記した。 68歳。現在の内田さんの年齢と同じだった。野球を巡る原風景が、なぜこうも違うのか。内田さんの視点から戦後80年のスポーツを考える。 後半の主な内容 ・軍人から野球選手へ 受け継がれた象徴 ・「学生野球の父」の新たな一面 ・「ON」も大谷翔平も素通り軍人から野球選手へ 受け継がれた象徴 マジョリティーからは見えない歴史がある。 ジェンダー史が専門の中央大講師、内田雅克さん(68)はジェンダーについて「男…この記事は有料記事です。残り2135文字(全文3321文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>