103歳、人生を詠んできた 俳句と短歌でたどる昭和100年の記憶

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書き写した数独パズルを手にする津田倭文香さん=岩出市で2025年11月19日午後2時44分、加藤敦久撮影 「昭和100年」に当たる2025年が終わろうとしている。その長い年月を心に留め、俳句や短歌、川柳に詠んできた女性がいる。和歌山県岩出市吉田に暮らす津田倭文香(しずか)さんは103歳となった今も1日1作品を目標に創作する。「思いきり髪を短くカットして百三歳を煙に巻きぬ」(以下、俳句、短歌は津田さんの投稿作品)。津田さんに会って近況を聞くとともに、「昭和100年」の貴重な記憶をたどっていただいた。【加藤敦久】 現在高齢者向け住宅に入居しているが、トイレは一人で行き、ふとんも自分でたたむ。昔から新聞が日課。「朝4時前から起き、服を着替え、届くのを心待ちにしてます」Advertisement新聞を虱潰(しらみつぶ)しに読む日々のカタカナ文字の癪(しゃく)に障(さわ)りぬ時雨(しぐ)るるや ふて寝してゐる休刊日 頭の体操に新聞のパズルを解く。数独の解けて窓より薫る風 気に入った問題は書き写し、介護士らに贈る。  ◇  ◇ 関東大震災前年の1922(大正11)年、山崎村(現岩出市)に生まれた。父親は産婦人科医で、4歳年上の夫の秩父さんも医師だった。 秩父さんが被爆者実態調査に提出した手記や親族の話によると、秩父さんは父親を亡くしており、「2人の弟のためにも死ねない。軍医になって内地にとどまろう」と考えた。終戦直前の1945年7月に倭文香さんと結婚後、和歌山県から医療団の長として、原爆投下後の広島市に向かい、宇品地区などでけが人の治療の指揮に当たり、入市被爆した。当時のことを「熱風を逃れるためか、川には無数のご遺体が折り重なっていた」と周囲に話していた。弟2人は1人は戦中に満州、1人は終戦後にシベリアの収容所で死亡した。 戦後、秩父さんは安楽川町(現紀の川市)で主に内科の津田医院を開業。倭文香さんは子供3人を育てながら、レセプト(診療報酬明細書)の作成に夜通し取り組んだ。「今の高市早苗総理は寝る間もないというてるけど、私は徹夜した後でも昼間に働きましたよ」と振り返る。 一方で、倭文香さんは戦後に創作活動に目覚めた。俳人の桑島啓司さん(84)が出会ったのは約60年前、山口誓子さん主宰の俳誌「天狼(てんろう)」の流れをくむ結社「岬」の集まりだった。倭文香さんは月1回の句会には必ず顔を出した。「頭がいいし、熱心。作品は写生がしっかりしている。その姿勢は今も変わらない」と桑島さんは語る。木枯や百歳にして天狼派 秩父さんは本の虫で植物に詳しく、倭文香さんは俳句の難読文字や季語の植物について相談した。高度成長期にブームとなったボウリングは共通の趣味で、2人で練習し、医師会の大会に参加。秩父さんは胃がんや心臓の病気を患ったが、夫婦で長寿の道を歩んだ。 2014年に90歳を超えて思うように体が動かなくなると、夫婦で和歌山市の老人ホームに入った。男女別で、秩父さんは2階、倭文香さんは3階。「主人は読売新聞、私は毎日新聞を読んで、主に手紙で感想をやりとりしました。主人は一番の友だちでした」。 23年2月、104歳で秩父さんが亡くなった。看護師が「今まで新聞を読んでいたのに」と驚く急変で、倭文香さんは手を握ってみとった。「最期は何か口で言うてましたけど、分からなかった。あのくらいつらかったことはありません」満天の星のいづこに夫(つま)います侘(わび)し我が身や燕子花(かきつばた)咲く  ◇ ◇ 倭文香さんは3月に103歳となった。「秘訣(ひけつ)? やっぱり食べなんだらあかん」。メロンパン、ヨーグルト、果物が好物だ。 今も連日新聞を読み、時に嘆く。「あちこちで戦争をまだしている。本当に収まってほしいですよ」。一方、うれしい記事にも出会う。天皇、皇后両陛下の長女愛子さまの成長ぶりだ。「どこへでもご自分で行かれている。大好きです」 エッセーを「女の気持ち」コーナーに投稿すると、見知らぬ全国の読者から「励まされました」と礼状が届く。子供3人、孫6人にも恵まれた。賀状書く曾孫(ひまご)八人隔てなく 俳句、短歌の創作でも、まだ作風を模索する。「昔はひねりまくっていたけど、今は見たまんまのことを書いた方がいいと思ってます」。毎日紀州歌壇・俳壇・柳壇に投稿し、採用を確認する。朝刊の土曜土曜の掲載日百三歳のときめきつ待つ