映画の推し事:女優・菜葉菜の生命力でよみがえった金子文子と激動の時代

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映画の推し事毎日新聞 2026/3/4 22:00(最終更新 3/4 22:00) 2737文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「金子文子 何が私をこうさせたか」Ⓒ 旦々舎 「If you think you know my story, trust me you don’t(わたしの物語を知っていると思うなら、大間違いだ)」 元々はアクションスリラーが得意なD・J・カルーソーが演出し、「金子文子 何が私をこうさせたか」とは伝記映画という点で共通する「マリア」の、導入部のナレーションを思い出した。Advertisement 2017年6月28日に韓国で公開された韓国映画「金子文子と朴烈」は、235万9174人の観客を動員し、約19億3000万円の興行収入を上げた。しかしここでの金子文子は、日本語が堪能な崔禧瑞(チェ・ヒソ)が演じて強い印象を残したとはいえ、あくまで脇役にすぎなかった。 さまざまな面で筆者の満足基準に達していない同作は、「建築学概論」で青春スターの地位を確立した李帝勳(イ・ジェフン)が演じた朴烈に「法廷のタフガイ」のようなヒーローのイメージを重ねることで、韓国の観客を満足させる戦略を持った商業映画に過ぎない。明確で進歩的な観点を持った「金子文子 何が私をこうさせたか」とは異なる。「金子文子 何が私をこうさせたか」Ⓒ 旦々舎虚実が共存する伝記映画 伝記映画は、映画史初期のセルゲイ・エイゼンシュテインの「イワン雷帝」やアベル・ガンスの「ナポレオン」のように歴史上の人物を扱った作品にしても、スティーブン・ソダーバーグの「エリン・ブロコビッチ」のごとき社会的影響力のある活動で知られている人物を描いたにしても、ドキュメンタリーではないため事実と虚構が共存している。 肝心なのは、主人公と当時の現実との関係をどのように捉えるかだ。映像作家が主観を介入させ得るのは、まさにこの地点だ。ある人物についての外形的事実の解釈は、人によって異なるのだ。 たとえば「マルコムX」では、急進的な社会改革派の代表だったマルコムX(デンゼル・ワシントン)の年代記に、アメリカ社会を根本的に揺るがす対立の種である人種問題を導入するため、ギャングスターのアーチ(デルロイ・リンドー)が登場する。「ジャンヌ・ダルク」はタイトルロール(ミラ・ジョボビッチ)を「聖女」にとどめず、ルネサンスの萌芽(ほうが)があったとはいえ神の領域に縛られていた時代背景の中で、やがて深刻化するであろう葛藤を抱え混乱したキャラクターとしてよみがえらせた。「金子文子 何が私をこうさせたか」Ⓒ 旦々舎多様な解釈と表現を生む芸術家の生涯 多様な解釈や表現が施されるのは、やはり個性が際立った芸術家が主人公の場合である。 「アマデウス」は、普通の人間とかけ離れた天才のモーツァルト(トム・ハルス)ではなく、彼の才能の前で終わりなき自己嫌悪と絶望を感じる平凡な芸術家のサリエリ(F・マーリー・エイブラハム)の心理に焦点を当てていた。 「ネルーダ 大いなる愛の逃亡者」には架空の人物である警察官のオスカル(ガエル・ガルシア・ベルナル)が登場する。公に政府を批判したネルーダ(ルイス・ニェッコ)を捕まえるように命じられたオスカルは、長い隠とん生活の中で世界的文豪へと成長していくネルーダの文章に魅了される。彼はネルーダの才能の証人であると同時に、1940年代のチリの混乱した時代を象徴する人物でもある。 作家の関心によって映画のスタイルやキャラクターが変化する場合もある。22年に日本でリマスター版が公開された「ロアン・リンユィ 阮玲玉」は、無声映画時代の大スターを通じて、90年代香港映画の“現在”について問うている。「金子文子 何が私をこうさせたか」Ⓒ 旦々舎限られた時間と空間で体験する激動の時代 こうして多様な伝記映画を挙げたのは、「金子文子 何が私をこうさせたか」が芸術的な評伝として成功しているからだ。 「金子文子と朴烈」では、関東大震災と、皇太子暗殺を謀った爆弾犯に仕立てられた文子の境遇を法廷ドラマの中で照らし出したのに対し、「金子文子 何が私をこうさせたか」では、文子を文才に富むニヒリストとして再評価しつつ、その内面に深く入り込む“実存的モノドラマ”の形式を採用する。ここでのメインコンテンツは、菜葉菜という女優の演技力である。 あえて“モノドラマ”と表現したのは、この映画がミザンセーヌなどの映像的要素を組み合わせてドラマを設計するのではなく、限られた空間における俳優のセリフや内面的アプローチがストーリーをリードしていくからだ。 最初のシーンで祖母の非情さに疲れ果て、死を思うまでに追い詰められた13歳の文子(巣山優菜)が生きることを決意すると、時間は9年後に飛び、舞台も朝鮮半島から日本列島に変わる。文子はアナキストの恋人と、皇太子暗殺を企てた大逆罪人となっている。 こうしてみれば、物語の舞台が宇都宮刑務所栃木支所という、極めて限られた空間に設定されているのは当然だ。ここで文子に与えられた時間は、26年4月8日から7月23日までと、4カ月にも満たない。 この極めて限定された時間/空間を乗り越えるために脚本家の山崎邦紀と浜野佐知監督が取った手法は、文子が書き進める文章と、彼女の行動や意識の変化、刑務所内での出来事や人間関係などを有機的に結びつけることであった。 これにより観客は、生々しい臨場感とともに、短い期間に起こったとは到底思えない事件に没入し、激動の時代を映画的に体験する。「金子文子 何が私をこうさせたか」Ⓒ 旦々舎小さな映画にあり得ないほどの満足感 さらに興味深いのは、日韓併合期の朝鮮半島で三・一運動と関東大震災という大事件を経験したことで、文子が凡人として生きられない自己に覚醒し、社会主義から無政府主義、さらに虚無主義という思想まで探求した挙げ句、真の自由を選ぶまでの旅である。 登場人物の誰もが法と情の間で揺れていることも、作品への興味を駆り立てる。 文子を応援しながら寄り添う2人の女監取締(鳥居しのぶ、和田光沙)と女囚(咲耶)、文子への人間的感情と法理の間を行き来する支所長(結城貴史)、生死の境を超えた文子には何の脅威にもならないのに、権威を振りかざし全体主義体制に盲従し哀れな姿を露呈する特高課長(贈人)と刑務所長(佐藤五郎)。 際だった個性と機知や知性で周りを感嘆させる金子文子が、菜葉菜の恐るべき才能によってよみがえり、生命力を誇示するのを見て、観客のカタルシスは増大する。小さな映画なのに、これほど大きな満足感を味わったことがあっただろうかと思うくらい、魅力的な作品なのだ。 目に見えるような金子文子のエネルギーを感じながら、ある時は、小劇場で才能あふれる俳優一人一人の演技をつぶさに見るように感激し、別の場面では1世紀前に戻り、小さな窓から日が差し込む独房にいる文子をすぐそばで眺めているような生々しさに驚くことになる。そんな映画体験を、してみたくはないだろうか。迷っている時間はない。(洪相鉉)【時系列で見る】【前の記事】アッと驚く映画作りが生んだ見たことない恐怖“がらんどう”香川照之の「災」関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>