出稼ぎの工女救済に尽力、吹雪の安房峠で遭難死 「聖人」の足跡

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篠原無然が遭難死した安房峠の現場。慰霊碑(右側)が建っている=岐阜県高山市で2026年3月、去石信一撮影 大正時代、岐阜県上寶(かみたから)村(現高山市)に、製糸工場に出稼ぎする「工女」の救済など、飛驒地域発展に尽くした篠原無然(ぶぜん)(1889~1924年)という人がいた。「聖人」と尊敬されたが、東隣の長野県から安房(あぼう)峠(1790メートル)を歩いて越える途中、吹雪で遭難死。村民は礎を失った。 明治末の1909年、日本の生糸輸出量が世界一に。岐阜県北部に当たる飛驒3郡から若い女性が働きに出た。上寶村の吉城郡11町村からは11年、1744人が県外に行き、半数は大生産地の長野県へ。こんな時の14年、山国生活を望んだ無然が教員として東京から移り住み、工女の境遇を憂慮した。Advertisement 労働者を守る工場法は、業者の抵抗に遭うも16年に施行。女子の労働時間は1日最大12時間に制限したが、人手が欲しい製糸業には5年後まで14時間、10年後まで13時間を認めた。休日は月2日だ。娘の収入に頼る保護者に「情けない」 工場の冬季休業期、工女の帰省地では、業者による次期働き手の争奪戦になった。「工場監督官」を務めた農商務省官僚の「勞働(ろうどう)者募集取締令釋義(しゃくぎ)」は、募集員が「人格劣るもの少なからざる」うえ、工女の親兄弟が目前の利益に惑わされ、「前貸金の多寡、土産品の良否に依(よ)り應募(おうぼ)を決し、勞働條件(じょうけん)を顧慮せず」と注意。岐阜県は19年、「職工募集取締規則」を改正し、工女や家族の接待のため、募集員が飲食店や劇場、自分の宿泊所に招くことを禁止したが違反者は相次いだ。 無然は度重なる新聞投稿で、娘に収入を頼る保護者に「(そもそも)酒や色に溺れ情けない。余裕ある暮(くら)しをすれば生活費は出て來(こよ)う」ととがめ、募集員にも「妙齡(みょうれい)女子を扱ふ結果、色と慾(よく)に迷ふて貞操を蹂躙(じゅうりん)」と倫理を問うた。 工場には、若年女性が学ぶべき「学科、裁縫を教える経費を惜しんで不十分」「長野懸邊(けんへん)では工女保護を問題にする者を忌避する愚劣な風がある」と指摘。工場が不潔で、郷里に伝染病を持ち込む例があり、「飛驒は肺病の巣窟に見らるる」と職場環境の改善も求めた。さらに、現金を手にし、華美な生活に陥りがちな工女をもたしなめた。1923年に長野県の天竜峡を訪れ、工女らと写真に納まる篠原無然(前列左から2人目)=村山昌夫さん提供 無然は出稼組合設立による団結が問題解決方法と考えた。「組合長は工場に直接交渉して雇用契約を結び、履行(確認の)視察して保護者に報告。工賃支払、工場法に依る諸般取扱(とりあつかい)に完全要求をする」「工女監督上も健康増進、堕落防止、貯蓄奨勵(しょうれい)に効果を收(おさ)むる」と訴えた。主張が実り19年以降、飛驒の町村ごとに組合が次々できた。 拠点とした村の平湯地区で無然は「一生紅女(工女)ではなし」と夜学を開き、帰省中に読み書きや裁縫、生活作法を身に付けさせた。文化や時事問題も説き、その知識と人柄は皆に慕われ、老若男女が通った。就職先を慰問、講話教育に力 19年に学校を退職した無然は、県内外にある工女の就職先を慰問し、講話による教育に力を入れた。各種の団体の会合にも呼ばれて社会課題を説明。工女が県外に行かなくて済むよう、地元工場の発展も働きかけた。「県教育史」は「整った帰郷工女教育が飛驒三郡のほぼ全町村において展開されたのは無然の献身的にして異彩を放つ活動があったから」とたたえる。 22年現在、飛驒3郡にある組合所属工女は約6500人。ただ23年の統計で、結城郡は2850人のうち12%が組合を通さず出稼ぎした。その方が有利な面もあったらしく、問題の複雑さも見える。 無然は23年1月、組合総会へのメッセージで「組合が栄え、世が変つたやうに正直と愛情(なさけ)と意志のすぐれた飛驒女(むすめ)が世に出るばかりか、馬鹿正直者にあつかはれて泣き寝入りしてゐた飛驒と飛驒人の信用を高めて下さる。お互(たがい)に人情(なさけ)をかけ合ひませう。我儘(わがまま)をつゝしみ、辛抱しあひませうね」と諭した。 無然は23年12月に大阪府の嘱託になり、24年10月まで娼妓(しょうぎ)の病院で、複雑な事情を抱える患者の訓育にも取り組んだ。 安房峠経由でふもとの平湯に帰ろうとした11月12日、長野県側の「白骨温泉」に到着。雪の中を迎えに来た青年2人に、13日に自分の大事な原稿が届いてから行くと言い、帰した。白骨の人は、原稿は当方が届けるから一緒に帰った方がいいと勧めたが断った。「平湯青年會(かい)」の會誌によると、13日は「午後ヨリ大吹雪」。 14日は雪が弱まり、無然は補助の雇い人3人と出発したが、また吹雪。登る途中、近くにある「中ノ湯温泉」の主人に会い、宿泊を勧められたがやはり応じず、都合がある雇い人を帰して平湯を目指し続けた。會誌には「アレ(荒れ)ノタメ迎(むかえ)ニ出ズ」とある。 晴れた翌15日朝、木を伐採するため山に入った人が、峠の岐阜県側山腹で無然の遺体を発見。弟の手記によると眼下に「平湯の見ゆる地点」。村人は「毎(いつ)も平湯出入(でいり)を一人でさせないものを」を悔やんだ。篠原無然の遭難現場近くから望む輝山。手前は平湯地区=岐阜県高山市で2026年3月、去石信一撮影 飛驒に移り住んで10年。會誌は「平湯發展(はってん)、青年等ノ指導ニ盡(つく)サレタ偉大ナル功跡ヲ思ヒ」、19日に区葬を執り行った。「我等(われら)ノナゲキヲアハレミテカ天ハ快晴。會葬者二百名程デ前例無キ盛葬デシタ」。平湯で「篠原無然記念館」を管理する村山昌夫さん(83)は「無然が現れたのは、鉱山が廃れ、温泉観光地に変わる大事な転換期。経営も指南し、経済面でも恩人だ。礼儀や道徳を重んじ、歌や踊りなど芸術も根付かせた。村人は東京の文化や知識をもつ姿がまぶしかったろう」と話す。北アルプス観光にも足跡 篠原無然が暮らした岐阜県上寶(かみたから)村の平湯は、乗鞍岳(3026メートル)北側の登山口にある。山の各所に、土俵ケ原や桔梗ケ原、大丹生(おおにゅう)岳、大黒岳、富士見岳などの名前を付けたのが無然。平湯峠(1684メートル)には、平湯青年會(かい)の事業として指導標を設置した。県出身の作家、滝井孝作は1917年に峠を訪れ、「牧場ノ牛馬ハ人ナツカシクヨツテクルノデ、ワルサハシマセンカラ木片デシツシツトシカレバニゲマス」と書いてあったと随筆で紹介している。 北アルプスの観光が有望だと見込んだ活動だった。村人の回顧録にも「先生の功績として特筆せねばならぬのは観光に残された足跡」とある。登山基地として、平湯温泉街の簡素な宿を変えるため、先進地の視察、設備の刷新、サービス改善を促した。当時関心が薄かった植林にも取り組み、アカンダナ山(2109メートル)などにカラマツなどを植えた。 一方、平湯の西の輝山(てらしやま)(2063メートル)では、青年らが建ててくれた山小屋に入り、断食や瞑想(めいそう)にも励んだ。焼岳(2455メートル)下部と、福地山(1672メートル)の山中にもたびたびこもり、求道者然とした姿も人々の尊敬を集めた。【去石信一】