残像1945:「マラリア地獄」死者次々と 転機は日本軍の命令 沖縄・波照間島

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残像1945喜屋武真之介毎日新聞 2025/9/29 11:00(最終更新 9/29 11:00) 445文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷波照間島を望む西表島の海岸の岩に刻まれた「忘勿石」の文字。強制疎開によるマラリアの犠牲者を「忘れる勿(なか)れ」と、当時の波照間国民学校の校長が記した=沖縄県竹富町で2025年8月30日、喜屋武真之介撮影 1945年9月、沖縄・八重山諸島の波照間(はてるま)島は「マラリア地獄」の渦中にあった。島民約1600人のほぼ全員が蚊が媒介する感染症「マラリア」にかかり、3割が亡くなった。きっかけは日本軍の命令だった。 八重山諸島では以前からマラリアに苦しめられてきたが、波照間島に感染は広がっていなかった。しかし45年3月、日本軍は波照間島民にマラリアの発生地として知られた対岸の西表(いりおもて)島への疎開を命じた。軍の食糧確保や機密の漏えい防止が目的だったとされる。Advertisement 八重山諸島に米軍は上陸しないまま沖縄戦は事実上終結。波照間島民は8月に帰島を許されたが、感染は続いた。高熱に苦しみ、食糧不足のために抵抗力も落ち、次々と命を落とした。「誰一人看病できる者もなく、全員動けぬ身となりました」。74年発行の県史には、家族・親族計16人を失った女性の証言が残る。 「戦争マラリア」による死者は八重山諸島全体で3600人を超えた。波照間島に薬が届き始めたのは46年1月になってからだった。【喜屋武真之介】【前の記事】学生たちが敵機の動き追い 今も残る山頂の見張り部屋 山口・青海島関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>