小説にも登場するJR瑞浪駅前=瑞浪市寺河戸町で2025年9月13日、山本直撮影写真一覧 劇団「前進座」が今夏、戦後80年特別企画として松本清張(1909~92年)朗読劇シリーズを東京や近畿で展開した。テーマは「平和といのち」。清張は戦後日本を語る上で欠かせない作家ということなのだろう。その出世作の一つに岐阜県瑞浪市が登場する長編推理小説「眼(め)の壁」がある。実は本作連載当時、清張はある「ミス」を犯していた。背景には美濃焼の産地ならではの事情があった。【山本直】 美濃焼は東濃地方(岐阜県の多治見市、土岐市、瑞浪市、可児市)で生産された焼き物の総称で約1300年の歴史がある。特に瑞浪市は焼き物だけでなく良質な陶土の産地としても知られ、多くの生産者に原料を供給してきた。Advertisement そんな美濃焼は市民の誇りだ。JR中央線瑞浪駅にほど近い龍門橋に立つと、土岐川の向こうに登録有形文化財である製陶会社の煙突2本が並んで見える。駅前には美濃焼で飾った高さ12メートルの煙突形のモニュメントが建ち、山間部の陶町(すえちょう)に車を走らせれば、日本最大のこま犬や茶つぼを見ることができる。今も稼働している陶土の鉱山=岐阜県恵那市の山間部で2025年9月12日、山本直撮影写真一覧 一方の清張。朝日新聞社に勤めていた53年に「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞したのを機に、本格的な執筆活動に入った。 57年には「眼の壁」と、同時並行で書いた「点と線」の2作品がヒット。「社会派推理小説」というジャンルを打ち立てた。あまたある清張作品で最も売れたのは「点と線」だが、当時は「週刊読売」に連載された「眼の壁」の方が人気が上だったという。 この作品は、手形詐欺に端を発する殺人事件の謎解きがテーマ。舞台が東京から長野、三重など広範囲に展開する中、瑞浪は主犯が身を隠す病院の所在地としてラストにも登場する重要な地だ。 「リアルとのシンクロ」が特徴の清張は、当時の瑞浪について「町と呼ぶほどでもない狭い人家の集まり」と容赦のない表現をする傍ら、学校のグラウンドで野球をする子どもの様子などを活写している。 だが、その生き生きとした描写に「落とし穴」があった。現在の土岐川の流れ=瑞浪市寺河戸町で2025年9月12日、山本直撮影写真一覧 まちを流れる川について「底の石が透いて見えるほどきれいで、子供が泳いでいた」と書いてしまったのだ。 採掘した陶土は、円筒形の回転式粉砕機(トロンミル)に水と一緒に入れて焼き物の原料となる粘土などをより分ける。その時に雲母がまじった白い排水が出る。市街地の東側で土岐川に流れ込む小里川(おりがわ)上流の山間部には陶土の鉱山や原料を扱う事業所が多数あり、そこから出る排水で土岐川は白く濁っていた。右側のドラムが焼き物の原料をより分けるトロンミル。水車で回していた=岐阜県瑞浪市明世町の市陶磁資料館で2025年9月12日、山本直撮影写真一覧 「小里川との合流地点より上流ではよく泳いだが、下流は本当に真っ白だった。もっとも魚取りはできたが」。瑞浪市陶磁資料館の遠藤三知郎館長(70)は小学生時代、つまり「眼の壁」が世に出た少し後の様子をこう振り返る。 清張はなぜそれに気付かなかったのか。 本人は後の随筆や対談で、編集者らとの取材旅行の途中で風邪をひいてしまい、瑞浪のまちを歩けなかったことをネタにしている。東京に戻ってから地図を買い込み、橋の上に立った主人公が泳いでいる子どもたちを見ている姿を想像して臨場感を際立たせたつもりだったという。登録有形文化財の製陶工場の煙突。手前が土岐川=瑞浪市寺河戸町で2025年9月12日、山本直撮影写真一覧 また、故郷・北九州市にある市立松本清張記念館によると、当時2作品を同時に連載していた清張は多忙を極めてもいた。そのため、記憶に頼って書くこともあったようだ。実際、「点と線」の現場となった福岡市・香椎については「取材に行った」ではなく「過去に行ったことがある」と回顧している。 現在の土岐川はもちろん濁っていない。2024年の岐阜県環境白書には「かつて陶磁器関連工場からの排水で真っ白に濁っていました。しかし、昭和40年代半ば以降、水質汚濁防止法や岐阜県公害防止条例等の法令の整備が進み、水質が改善されました」との記述がある。 瑞浪市窯業技術研究所に入って二十数年になる大野万里子さんは先輩から「土岐川の濁り具合が地元陶磁器業界の繁栄を象徴している」と聞かされたそう。濁りがなくなったのは規制のおかげだが、業界が以前の活気を失っているのも確かだ。 岐阜県経済産業振興センターの資料によると、県内の和食器の全国シェアは約4割強、洋食器に至っては7割弱で大きな増減はない。だが出荷額を見ると、和食器はピーク(1994年)の4分の1程度、洋食器は85年の9割減にまで落ち込んでいる。 大野さんは「シェアは横ばいだが、ミニマルな生活を好む人も増え、焼き物への購買意欲自体が全国的に落ちている」と話す。世界最大の美濃焼の茶つぼ。高さ5・4メートル、使用した陶土は32トン=瑞浪市陶町大川で2025年9月13日、山本直撮影写真一覧 原料の不足も顕著だ。鉱業権のある鉱山が掘り尽くされてしまった上、新規の開発には膨大な費用と時間がかかることから、この30年間で県内で50以上の鉱山が閉山。今も稼働しているのは1桁に過ぎない。 ちなみに「眼の壁」に出てきた「透いて見えるほどきれい」などの記述は、単行本刊行時に「橋の上からのぞくと、水は白く濁っていた。陶土のためだ」と修正された。 清張は「読者から猛烈な抗議に遭った」と振り返っている。それは「濁り」が繁栄の象徴だったからかもしれない。