6月6日、母が仏壇に供えた「あんパン」 81歳が初めて語る神戸空襲

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母が大切にしていた兄の形見の洋服を手にする金川佐智子さん=神戸市西区で2026年2月25日午後3時25分、山本真也撮影写真一覧 81年前、空から落ちてきた焼夷(しょうい)弾で3歳の兄は炎に包まれ、祖父も絶命した。母は亡くなるまで涙ながらに惨劇を語り続けた。81歳になった娘は港町を見下ろす丘の上の慰霊碑に兄らの名前を刻んでもらうことにした。2人の空襲死を埋もれさせまいと。17日には母から受け継いだ体験を初めて人前で話す。 神戸市西区の金川佐智子さん(81)は1998年に85歳で亡くなった母親の遠藤励子さんが毎年6月6日、仏壇にあんパンを供える姿を目にしてきた。3歳で亡くなった兄の遠藤吉信ちゃんの好物。「私が防空壕に連れて行けば死ななかった」といつも泣いて悔い、当時のことを語っていた。Advertisement 太平洋戦争末期の45年6月5日、米軍機の大編隊が神戸を襲った。乳児だった金川さんは祖母に抱かれ、垂水区の自宅から近くの防空壕に避難した。井戸修理中に亡くなった祖父礼蔵さん(金川さん提供)写真一覧 だが、祖父の遠藤礼蔵さん(当時58歳)は空襲警報が発令される中、自宅敷地にある井戸で、壊れたつるべの修繕を続けた。近所の人たちがよく水をもらいに来ており、「みんなが困るだろう」と気を利かせたという。励子さんも自宅に残り、礼蔵さんのそばでは3歳の吉信ちゃんが作業を見ていた。 その時、近くで焼夷弾が破裂した 礼蔵さんは金づちを持ったまま右腕を吹き飛ばされた。中庭にいた家族のところまではって行き、「早く逃げろ」と言って絶命した。 吉信ちゃんは火だるまになった。励子さんは息子を抱え、用水路につけた。ジュッと音がした。「母ちゃん泣かんといて、泣かんといて、僕痛い言わへんから」。吉信ちゃんは痛みに耐えていた。だが、しだいに視力が衰え、昼間なのに「暗いから電気をつけて」と言いながら翌日、亡くなった。3歳で亡くなった兄の吉信ちゃん(金川さん提供)写真一覧 励子さんは息子を失ったショックからなかなか立ち直れなかった。父との仲がうまくいかなくなり、離婚。裕福だった実家は大黒柱の祖父を失ったことで没落し、戦後は屋敷や畑を売って、離れに住んだ。金川さんの子ども時代は常に空腹で、電気や水道を止められたこともあった。 「ぜんぶ戦争が悪いんや」。励子さんは金川さんに言い聞かせた。金川さんは言う。「母は戦争で人生の歯車が狂った」 晩年は平穏な暮らしを得た励子さんだが、あの日の空襲について話すのはやめなかった。金川さんの長女で孫の美馬智美さん(55)も何度も聞かされた。智美さんは「話す時は必ず泣いていた。戦争から何十年もたっているのに、子どもの時は不思議な気がした」と振り返る。 戦争末期に神戸で120回以上繰り返された空襲は神戸空襲と呼ばれる。その中でも6月5日の空襲は3月17日などと並んで特に規模が大きかった。 空襲全体の犠牲者は8000人超とされるが、被害の全貌はわかっていない。市民団体「神戸空襲を記録する会」などが名簿収集を続けているが、大倉山公園(中央区)の慰霊碑に刻まれた氏名は2267人にとどまっている。 金川さんは2025年暮れ、慰霊碑の存在を知った。新聞を見たいとこが教えてくれたからだ。記録する会に届け出て、兄と祖父の名は、他にこの2年間で判明した三十数人とともに6月に行われる刻銘追加式で碑に刻まれることになった。 金川さんは「2人は写真でしか知らないが、母が語り伝えてくれたおかげでずっと身近な存在だった。母の話を重荷に感じたこともあったが、あの時代を知る人が少なくなり、大切なことだったと気づかされた。二度と戦争を繰り返さないため、私も孫やひ孫たちに伝えていきたい」と話す。 17日午後1時半からは空襲犠牲者合同慰霊祭が兵庫区今出在家町の薬仙寺で営まれる。金川さんら遺族の話や体験手記の朗読などがある。広く一般の参列を呼びかけており、問い合わせは、記録する会(078・891・3018)。【山本真也】