一度はあきらめたトルコ料理店 回り道重ね、たどりついた「店の形」

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店舗前に立つ国立大喜さん=由仁町で2026年2月12日、高山純二撮影 脱サラして飲食業界に飛び込んだ北海道由仁町の国立大喜さん(50)。修業期間を経て、いざ独立を考えた時、思い浮かんだのがトルコ料理だった。 「学生時代にトルコを旅したとき、イスタンブールで食べたドネルケバブがおいしかった。あれを突き詰めたら、面白いと思った」。本場の味を学ぼうと、新たな修業に旅立った。Advertisement 脱サラ後、札幌市内のシンガポール料理店で2年間働いた。店主と一緒にシンガポールに赴き、屋台街を食べ歩いたり、食材を仕入れたりしたこともあった。 「食を通じて、その国を掘っていく旅の仕方、姿勢を学んだ」。店は夕方にオープンし、深夜まで営業していた。 当初は、映画講座で知り合った仲間たちと上映会のできるフリースペース兼飲食店をつくるつもりだった。だが、昼夜逆転の生活をしていると、仲間たちと生活リズムが合わなくなり、いつしか目標は自分一人で飲食店を立ち上げることに変わっていた。 独立を目指し、トルコへ旅立ったのは27歳の時。イスタンブールの繁華街を歩いていると、日本人女性と出会った。女性の夫はトルコじゅうたんの小売店を営んでいた。 事情を話すと、修業のできるトルコ料理店を紹介してくれ、しかも、従業員が共同生活する部屋に寝泊まりしてもいいという。 トイレ、シャワーは共同で、三段ベッドが二つある部屋に居候し、日中はトルコ料理店で働き、夜は語学学校に通う。ただし、じゅうたん店に日本人客が来た場合、一緒に接客することもセットだった。 トルコでの生活は、当初は3カ月間の予定だったが、計8カ月間に及んだ。料理や語学を学び、欧州も周遊した。 じゅうたん店のお客さんだった日本人男性が2005年の愛知万博(愛・地球博)に合わせて、名古屋駅近くにトルコ料理店を新規出店すると聞き、帰国して男性の会社で働くことにした。 内装や食器、メニューなど、一から新規店舗のオープンに携わり、オープン後には店長としてトルコ人シェフや日本人アルバイトら計約50人の先頭に立った。 独立の予行演習ともなり、店舗経営の知識やノウハウは増えた。だが、独立にはなかなか踏み切れなかった。 「肝心の料理技術に自信が持てなかった。トルコ人の気質を見ていて、シェフを雇うこともためらう気持ちがあった」 30歳を迎えると、親の勧めもあり、地元・函館に戻って家業の不動産業に転職する。夢を諦め、全く畑違いの仕事をして数年がたった頃、仲介のためにある物件に足を運ぶと、体に電流が走った。 築約100年のその建物は、憧れたカフェに似た雰囲気をまとい、トルコランプのぶら下がっているイメージが湧き上がる室内だった。 「一度は封印した気持ちが漏れ出てしまい、『ここでトルコ料理店をやりたい』と思ってしまった」 飲食店を開くことを決意し、内装は友人の力も借りて約半年をかけて自ら改装した。計13席のこぢんまりした店だが、思い入れはぎっしりと詰まった店舗ができあがった。 店を軌道に乗せると、店内で映画の上映会や音楽イベントなども開催。脱サラした10年前に思い描いていた「店の形」となり、夢が実現した瞬間だった。 店舗は函館・西部地区の二十間坂沿いにあった。函館山ロープウェイも近い好立地の場所だが、スペースの狭いことが唯一のネックだった。 イベント出店もするようになると、資材の置き場がなく、ストレスを感じるようになる。スペースが広く、子育てもしながら経営できる物件を探していたところ、たまたま長沼町で飲食店を経営する夫婦と知り合い、隣接する由仁町でイメージと合う建物に出合った。 「最初は函館の郊外を探していたけど、ピンとくるものがなかった。北海道に住んでいて、函館しか知らないと、北海道の全部は分からない。道央地方も知ってみたいという好奇心もあった」 長男が小学校、長女が幼稚園に入るタイミングで移転。午前11時~午後4時(ラストオーダーは午後3時)の昼に営業し、5年が過ぎた。 函館時代、インドやネパールを旅して、メニューにカレーを取り入れるなど料理のレパートリーを少しずつ増やしてきた。 今年は新しい挑戦として、2月から月1回の夜営業も始めた。 「ここにずっと住むのか、また次の移転があるのか分からないけど、挑戦はし続けていきたい」 若かりし頃、あてのない放浪の旅に憧れた。ワクワクしたいというその時の気持ちは、今も胸の片隅に残っている。【高山純二】 1976年生まれ、函館市出身。函館ラサール高、岩手大工学部卒。会社員や飲食店勤務などを経て、2011年に函館市で飲食店「トルコ喫茶 パサールバザール」をオープンし、「諸国料理店 パザールバザール」に店名を変更した。21年、由仁町に移転した。